渋谷駅周辺の “まちづくり”のこれまで、そしてこれから。【前編】
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2019年11月には「渋谷スクランブルスクエア」、12月には「渋谷フクラス」が開業と、“まちびらき”が進む渋谷。再開発の大きなきっかけは、2002年、東急東横線と東京メトロ副都心線の相互直通運転の決定までさかのぼる。以来、この巨大プロジェクトはどのように進んできたのか、異なる立場からまちづくりに関わったメンバーが語り合った。対談の会場となった渋谷区役所新庁舎に集まったのは、一般社団法人渋谷未来デザイン※(以下、渋谷未来デザイン)事務局長の須藤憲郎さん、渋谷区土木部道路課長の米山淳一さん、株式会社日建設計都市開発グループ代表の奥森清喜、パシフィックコンサルタンツ株式会社で渋谷プレイングマネジャーを務める小脇立二さん(写真左から順)。4人が語る渋谷駅周辺のまちづくりのこれまで、そしてこれからの姿とは。ファシリテーターは、渋谷駅周辺の開発プロジェクトに長年携わり、現在は渋谷未来デザインのプロジェクトデザイナーも務める、日建設計都市開発部アソシエイトの金行美佳。
※一般社団法人渋谷未来デザイン:未来の「都市」の可能性と、渋谷を愛する人々が実現したい「夢」を叶えるため、オープンイノベーションにより社会的課題の解決策をデザインする組織。日建設計は設立準備から携わり、2018年の設立以降はパートナー企業として参画。
ウェブサイト:http://fds.or.jp/
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“激流”は約20年前の東横線と副都心線の相互直通化の決定から始まった
米山:私はまさに2000年から渋谷区の都市計画課に配属されて、主に2006年まで携わっていました。当時は、渋谷への誘致を進めていた東京メトロ副都心線と東急東横線との相互直通運転が決まって活気づいていた頃です。地下化する東横線渋谷駅の跡地をどう活用するか、始発駅から途中駅となってしまう渋谷にどう人をとどめるかといった都市計画の調整を行っていました。
須藤:本格的に関わるようになったのは、都市整備部渋谷駅周辺整備課に異動した2009年からですね。現在は渋谷区の次世代型まちづくりを推進する組織「渋谷未来デザイン」へ渋谷区から派遣され事務局長を務めています。
奥森:2009年といえば、いよいよヒカリエの都市再生特別地区が提案され、それに続く街区の計画が具体化していく時期ですね。
米山:須藤さんがいた都市整備部は、もともと職員3人で細々とやっていた部署が、まちづくりに本格的に取り組むために名称を変えてできたんですよ。計画が決定して一気に動こうという頃ですから、しっかりとした組織をつくって回そうということで。
金行:小脇さんは、米山さんや須藤さんよりも前からまちづくりに関わっていたんですよね。
小脇:僕がコンサルタントとして渋谷に関わりはじめたのは、まだ激流の前の“川”が流れ始めるかどうかという1997年くらいですね。当時の営団地下鉄が13号線(現副都心線)の計画を検討していた頃に、東急電鉄さんと地下の将来計画案をつくったのが最初です。副都心線の建設が決定し計画が一気に動き始めたあとは、米山さんや須藤さんと一緒に、息継ぎもできないまま20年間泳ぎ続けて、今に至る……ですね。
奥森:渋谷に青春をかけたわけですね(笑)。
小脇:ええ、私の経歴の大半が渋谷のまちづくりです。奥森さんは?
奥森:私たち日建設計は2003年、都市再生緊急整備地域をかける議論を始めた頃からですね。各鉄道と駅前広場をどうするのか、都市基盤と建物と鉄道を一体にして考えなければいけないフェーズで、建築的な側面を検討するために加わりました。今まさに工事中の渋谷駅街区(渋谷スクランブルスクエア)における建築敷地と、駅前広場の土地の入れ替えのような、再開発の大きな骨格の議論が始まったタイミングで、その後はみなさんと同じように激流を泳いできました。
地域住民が参加した、初めての“渋谷まちづくり”
米山:最初に私たち渋谷区と小脇さんでまとめたのが、2003年の「渋谷駅周辺整備ガイドプラン21」(以下、「ガイドプラン21」)です。当時、政策研究大学院大学特別教授の森地茂先生の委員会では国道246号線の計画を、また東京工業大学名誉教授の黒川洸先生の委員会は明治通りの計画をそれぞれ進めていました。その中で渋谷区は何をしていくべきかを検討した結果、渋谷の特徴である坂道や路面店を活かして、人中心の歩行者ネットワークをつくるという方針になりました。
奥森:街全体をデッキや地下でつなぐというアイデアは今も引き継がれていますね。渋谷駅街区(渋谷スクランブルスクエア)と宮益坂方面・道玄坂方面をつなぐ4階レベルのデッキネットワークの計画は当時からありました。
米山:谷を埋めるというか、尾根を通すような発想ですね。検討を重ねる中で少しずつ変わってきてはいますが、このときから現在まで大きな方針は同じかもしれません。
米山:そこについては、さまざまな事業者が関係するため、行政だけで実行するのは難しいと判断しました。渋谷は複数の路線が混在していることもあり、鉄道事業者との検討には時間を要しました。
小脇:「ガイドプラン21」の委員会には、町会や商店会の方がたくさん参加されていたんですよ。みんなの意見をまとめようとするときに、13号線以外の鉄道がどうなるかという不確定要素は現状同様として考え、そのうえで何ができるかをずっと議論していきました。それが基本的な思想だったと思います。
須藤:地元の方も入れた座組みだったんですよね。住民と合意を結んでいく手法として、都市計画の策定段階から地元を巻き込んだ大きな会議体で検討していこうという発想でした。
米山:私は、これが地元も巻き込んだ渋谷のまちづくりの初めての例じゃないかと思うんです。というのも、2000年以前の地区計画は2つしかなくて、それらは行政がつくった計画を民間が実行していく形でしたから。それが2000年の「都市計画マスタープラン」で提示された「みんなで進めていく」という考えに合わせて、地域と行政、民間が一緒になって進めていって。
金行:街のつくり方が2000年以降で大きく変わったんですね。行政計画では、「ガイドプラン21」の次に「渋谷駅中心地区まちづくりガイドライン2007」(以下、「ガイドライン2007」)が策定されました。米山さんや奥森さんは策定に関わっていますか?
小脇:この協議会は「再開発を進めるには、地元の人たちと情報を共有し、意見をもらい、計画にフィードバックするという仕組みが必要だ」という渋谷区さんの確固たる意志のもと立ち上がりました。地域の方々と議論をする場と、計画を詰めていく場が両輪となって機能していたということです。
金行:そのあと、2009年に「渋谷ヒカリエ」が着工し、渋谷駅街区などの周辺開発の計画が具体化するなかで、「渋谷駅中心地区まちづくり指針2010」(以下「指針2010」)が策定されました。こちらは須藤さんがメインで関わった行政計画ですよね?
須藤:はい。行政が計画をつくり、民間は意見を出すという住み分けができて、座組みが明快になりました。私たち行政や企業も、みな渋谷をいい街にしたいと思っているということを、地元調整協議会もだんだんと理解してくれて、本音が出るようになっていったんです。そうした声を反映するために、(「指針2010」の中に)「渋谷らしさ」について語るページをつくろうということなりました。地元の方々の街への思いをしっかり表現できたと思います。
奥森:1年間くらいずっと議論をしていましたよね。「渋谷らしさ」とは何かということが、さまざまな場で語られ始めたのはこの頃からではないでしょうか。
かつて“裏側”だった渋谷川が生んだ、新たな可能性
小脇:僕もこの計画を一緒に検討させていただきました。渋谷川に関しては、技術的な話から、川をどう使っていくのかという検討まで、長く議論していましたよね。
須藤:今は「渋谷ストリーム」ができて、話がさらに進んでいます。東横線の跡地が、民間都市開発によって駅からすぐ近くの川沿いの遊歩道という公共空間になったのはすごく価値のあることで、そこと渋谷川をいかに結びつけるかが、これからの課題だと思っています。
奥森:治水という点でもいろいろな制約がありますし、都市開発において、本格的に川に取り組んだ事例はあまりないですよね。ストリームの開発が始まるまでは“裏側”というか、誰も意識していなかった渋谷川に、たくさんの人が行き交うようになったという意味では、大きなインパクトがありました。
米山:渋谷川沿いの景色もこれから変わっていくでしょう。店もどんどん増えているし、オフィスも入りつつありますし。そういえば、渋谷未来デザインでも、社会実験的に川沿いの活用法を検討していますよね?
須藤:川沿いの遊歩道に「PARK PACK」というコンテナを設置して、誰がどんな使い方をするといい公共空間として都市に埋め込まれるかという実験をしています。たとえばここでイベントをした場合、人の流動や属性はどうなって、地域にどんな影響があるのかなど、基礎的なデータを取っているところです。今後、きっと渋谷区さんが共催してくれると思っています(笑)。
金行:これぞ官民協働ですね。渋谷川だけでなく、いろいろなところで街が変わっていくタイミングなんですね。
(後編の公開は7月20日前後を予定しています)